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伊勢神宮を本宗と仰ぐ、神社本庁傘下の神社です。

御由緒ORIGIN

瑳珂比神社

戦国時代、能登より来て小此木、境、中島、百々、八木沼、平塚、島村の7か村を領有した小此木左衛門尉長光(小此木長光/小柴長光)は、天文15年(1546)に戌亥の鎮護のため百々の地に生国能登の石動明神の分霊を遷して守護神とし、のちに境城を築き居城とするに当って、元亀3年(1572)現在の地に遷し、また、長光の子左衛門二郎は稲荷の神像と石製の剣を奉納して武運長久を祈願したので、これより石剱権現と称したが、石剱と書いてそのまま祖先発祥の由緒をもって「いするぎ」と呼んだものである。神社地は城跡であり、古くは城の南面に広瀬川が流れる丘であり、また近年まで神社入り口の両側に空堀があった。
当社は城主小此木氏の崇敬が殊に篤かったのであるが、天正18年(1590)小此木氏が金山城主由良氏に従って常陸牛久へ退去するに当たり、境の村人は中島の飯福明神の氏子であったが、当社を石剱稲荷大明神と改め、これよりのち当社を鎮守として氏子となった。
正保2年(1645)12月7日、境に2の日、7の日、月6回の六斎市が開かれるようになると守り神として天王宮を祀り、糸市が次第に繁盛すると石剱稲荷大明神は商売繁盛・家内安全の御神徳をもって益々村人の崇尊の的となった。
初め小此木氏築城の頃、此の地は借宿と呼ばれていたが、後に境村となった。そして六斎市が繁盛して次第に町並みが形作られると、慶安年間(1648-1651)に至り境町と改めた。毎年正月7日を六斎市の寄市と言い、石剱稲荷大明神の神官を先頭に神輿が町中を渡御し、この日伊勢崎藩主酒井候より祭礼米2俵を賜るを例として、これを初市廻りと称した。この初市廻りの行事は六斎市の廃された後も町の行事として昭和初年まで続けられた。
宝暦11年(1762)2月8日、拝殿の建立が成就し、この年藩侯より2畝24歩(約277.68平方メートル)の除地を賜った。明和3年(1766)11月、大室村の石工に注文した石鳥居ができたので、町民総出でその引き取りに当たり、大八車を用いて3日を要して引き取り建立を終わった。同5年秋に本殿上屋の建立が出来上がった。安永2年(1773)9月、社前に挿花絵馬が奉納されたが、これは現在境町に残された多くの絵馬のうち最も古いものである。天明9年(1789)2月、小此木官兵衛は本殿に金剱を奉納す。次いで享和元年(1801)4月に町内氏子中の発起により現在の社殿が造立され、その大棟札が保存されている。棟梁は小此木村天田新六で、この人は愛染院も造立した。石剱稲荷大明神建立の願文に「天下泰平神威?増院安穏興隆仏法地頭安穏氏子繁盛」と云う。社殿の規模壮大、本殿の彫刻は結構を極めたものである。社地書上帖には「本殿6尺4方、屋根桧皮葺き、拝殿5間3間、瓦葺き」という。ここに於いて神威荘厳を加え益々町内の尊崇を得るに至ったが、漸く社地手狭になったため文化5年(1808)11月井上宗栄預かり地の譲渡を受けて神域とした。社地合わせて841坪である。境城跡地城山の地は城主小此木氏退去の後、石剱権現・長光寺地を除いて伊勢崎藩直轄領となり、井上家が預かり地として管掌していたのである。文化5年(1808)秋、井上家よりこの地を社地として譲り受ける交渉の結果、金十両をもって示談となった。境町の酒造家日野屋太助は金十五両を当社に寄進し、その内金十両を地代とし、金五両を永続金としたのである。
ここに於いて漸く社地広大となり、神域の良く整うことを得た。当時神域には「明神の松」と呼ばれた老樹があって、近郷近在よりこれを目当てとして多くの参詣があった。当社の祭礼は春秋2回、春は2月初午、秋の例祭は「しまい9日」と呼ばれて9月29日であった。初午祭には町内近郷からの参詣で群集し、米粉で製した繭玉に豆木をそえて奉賽するのが例であった。 明治7年(1874)村社に列し、同40年(1907)9月27日に境内末社の菅原神社(菅原道真命)、八幡宮(応神天皇)、疱瘡神社(鎮西八郎為朝命)及び町内に祭祀せる諏訪神社(建御名方神)、八幡宮(応神天皇)、八坂神社(泰盞鳴命)、稲荷神社(倉稲魂命)、神明宮(天照大神)、菅原神社(菅原道真命)、琴平宮(大物主命)、秋葉神社(火産霊命)の11神を合祀、社名を瑳珂比神社と改めた。大正3年(1914)神饌幣帛料供進神社に指定された。

小此木菅原神社

古伝によれば、日本武尊、御東征の折、当地一帯を眺められ、「朝日の里」と仰せられたという利根・烏川両川の運んだ沃土と水利のこの地に何時か人々が住みつき、鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光が松の傍らに天満宮を祀ったのが初まりとされる。
その後戦国時代、金山城主由良氏に属した小此木左衛門尉長光が境城を預ってこの地を領し天満宮を興す。天正18年(1590)、徳川家康公が江戸城に入城以後、祭祀は里人の手に移り、寛永年間(1624-1643)社殿造営、安永年間(1772-1780)改築、明治11年(1878)村社に列し、明治40年(1907)、地内各組の愛宕神社(火産霊命・日本武尊)、天神社(菅原道真公)、神明社(豊受気媛神)、八坂社(素盞鳴命・奇稲田姫命・八柱御子神)、稲荷社(豊受気媛神)、熊野社(素盞鳴命)、諏訪社(建御名方神)、住吉社(表筒男命)、浅間社(木花開耶姫命)、八幡社(応神天皇)、雷電神社(大雷神)、城峯神社を合祀して現在に至る。

菅原道真公の御神蹟

フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia) より
菅原道真公は代々学問を以て朝廷に仕えた家柄に生れ、幼少より天才の誉れ高く、11歳で漢詩を詠んだと謂われ、勅命で史書を編纂逑し、国司から右大臣にまで栄進しました。
宇多天皇が藤原氏の専横を押さえるため道真公の学識徳望を重く用いたため、左大臣藤原時平の妬むところとなり、中傷され太宰権帥として九州に流され、延喜3年(903)2月25日59歳で亡くなられました。その後京都で落雷や疫病などが続いたので、道真公の忠誠を顕し天満天神として祀られ、以後学問・技芸の神、寺小屋の天神講として全国に広まりました。

萩原諏訪神社

主祭神、建御名方神は古事記に依るに、大国主命の第2子にして、出雲国を天照大神に奉りたる後、信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるにより、近隣諸氏その徳を偲び五穀豊穣・家内安全・商売繁昌・開運招福の神として諏訪大社にその霊を祀る。
諏訪神社は全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。
諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃・八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。
当社は天正年間(1573~1591)諏訪大社の分霊を奉遷し、剛志村下武士に鎮祭せしを天保9年(1838)、萩原の有志相計り住民50余戸の賛助を得て、これを譲り受け現在地に鎮祭せられたるを初めとする。また、明治の御代に稲荷神社、秋葉神社(火産霊命)、八坂神社(素盞鳴命)、大国神社(大国主神)、春日神社(武甕槌神・経津主神・天児屋命)、八幡宮(応神天皇)を合祀し現在に至る。